大判例

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最高裁判所第一小法廷 昭和60年(行ツ)144号 判決 1987年5月28日

上告人 廣友甚七 ほか一四名

被上告人 防衛庁長官 ほか一名

主文

本件上告を棄却する。

上告費用は上告人らの負担とする。

理由

上告代理人寺田熊雄、同内藤信義、同浦部信児、同嘉松喜佐夫、同関康雄、同山崎博幸、同石田正也、同奥津亘、同佐々木齊、同大石和昭、同森脇正、同桜井幸一、同一井淳治、同宮崎健一の上告理由について

本件射撃訓練及び本件立入禁止措置はいずれも抗告訴訟の対象となる公権力の行使に当たる行為に該当しないとして、その差止請求に係る本件訴えをいずれも不適法とした原審の判断は、正当として是認することができ、原判決に所論の違法はない。所論引用の判例は、事案を異にし、本件に適切でない。また、記録によれば、第一審及び原審の訴訟手続に所論の違法はなく、右違法があることを前提とする所論違憲の主張は、前提を欠く。論旨は、ひつきよう、独自の見解に基づいて原判決を論難するものにすぎず、採用することができない。

よつて、行政事件訴訟法七条、民訴法四〇一条、九五条、八九条、九三条に従い、裁判官全員一致の意見で、主文のとおり判決する。

(裁判官 高島益郎 角田禮次郎 大内恒夫 佐藤哲郎 四ツ谷巖)

上告理由

広島高等裁判所岡山支部が昭和五八年(行コ)第三号行政処分取消請求控訴事件について、昭和六〇年五月三〇日言い渡した判決には、次に述べる憲法その他の法令違背および最高裁判所の判例違反があるので、破棄されなくてはならない。

日本国憲法第九条はその第一項において、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争解決の手段としては永久にこれを放棄する旨を、第二項において、前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は保持せず、国の交戦権はこれを認めない旨を規定した。

同条第二項の法意が、自衛のための戦力の保持をも禁止したものかどうかについては、学説の分かれるところであるが、最高裁判所はこれについて、未だ明確な判断を示していないと考えられる。

即ち、最高裁判所は、昭和三四年一二月一六日、いわゆる砂川事件に関する大法廷判決において、「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかし、もちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何等否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して、無防備・無抵抗を定めたものではないのである。……中略……憲法第九条は、わが国が平和と安全を維持するために他国の安全保障を求めることを何等禁ずるものではないのである。」として、安保条約合憲論の構築を図ると共に、続いて第二項の意義について、「そこで右のような憲法第九条の趣旨に則して同第二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権・管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めた、いわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するのを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国が主体となつてこれに指揮権・管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである」と判示した。

次いで、右判決は、いわゆる統治行為理論の展開を図り、「安保条約のごときわが国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有する条約が違憲なりや否やの判断は、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものである」と判示して、安保条約の合憲性の判断を導いているのである。

この判決以後、憲法第九条の法意について判断を示した最高裁判所判例は存在しない。

以上のように、最高裁判所は、未だに、憲法第九条二項が、いわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かについての判断を示していないことはもちろん、現在の自衛隊が果たして自衛のための戦力に該当するか否かについての判断をも下していないことは明らかである。

それと共に、将来、仮にこの種の判断を求められた場合には、右に述べたいわゆる統治行為論により、その点の判断を避けるであろうと考えるのがむしろ合理的であると思われる。

上告人らは、憲法第九条二項は、たとえ自衛のためであつても、いわゆる戦力の保持を禁じたものであり、かつ、現在の自衛隊は明らかに同条二項にいう「陸海空軍その他の戦力」に該当し、その存在を許されざるものとする立場に立ち、自衛隊の実弾射撃訓練の禁止を求め来つたものである。

しかしながら、第一審裁判所はもちろん、原審もまた、この点の憲法判断を為さず、自衛隊の実弾射撃訓練は、行政行為でこそあれ、非権力的行為であつて抗告訴訟の対象にはならないとする法的判断を示し、本件日本原演習場における自衛隊の実弾射撃の差止め、並びに、かかる実弾射撃訓練のため本件演習場内への上告人らの立入を禁止する処分の差止を求める上告人らの請求を容認せず、原審は第一審裁判所の判決を是認して、控訴棄却の判決を為したのである。

それ故、上告人らは本上告趣意書においては、自衛隊が違憲の存在なりや否やの論点は、ひとまずこれを措き、自衛隊の行う実弾射撃訓練を公権力の行使に当たらないとした原審の判断についてのみ検討するものである。

第一点

陸上自衛隊が実施する射撃訓練および被上告人呉防衛施設局長が為した立入禁止処分はいずれも行政事件訴訟法(以下、行訴法という)第三条一項に定める「公権力の行使」に該当しないとした原判決は行訴法の解釈適用を誤つたものであり、その違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。

原判決は、陸上自衛隊が実施する射撃訓練は内部職員に対する教育訓練の一つであるとし、この訓練は国が公用財産を供用目的に従い通常の用法によつて自ら使用をしているもので、私法上の使用関係に異ならない、としている。

しかしながら、第一に、射撃訓練を内部職員に対する教育訓練とだけ認定しているのは、防衛庁の行う訓練が自衛隊の組織装備等技術・技能等を向上させ、防衛意欲を涵養するだけでなく、防衛訓練、演習はそれ自体が直接国の安全を守る防衛活動になつていることを見逃している点において不当である。防衛訓練・演習はそれ自体が他国に対する戦力の展開・誇示であり、戦争を抑止する力として機能しているのである。

この点他の行政庁の行う内部職員に対する教育訓練とは本質的に異なるのである。防衛訓練・演習はまさに防衛庁の行政目的である国の安全を保つための行動それ自体である。

第二には、行訴法第三条一項・同第二項に定める「行政庁の公権力の行使」の概念について解釈を誤つたうえ、本件射撃訓練が公権力の行使ではないとした点においてその適用をも誤つている。

一 自衛隊の行なう防衛訓練の性質

(一) 射撃訓練の目的

(1) 陸上自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略および間接侵略に対しわが国を防衛することを主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たることを任務としており(自衛隊法第三条)、外部からの武力攻撃に際して、わが国を防衛するため出動をし(同第七六条)、間接侵略その他の緊急事態に際しても治安維持のため出動をすることがあり(同第七八条・第八一条)、その任務の遂行に必要な武器を保有し(同第八七条)、右防衛および治安出動にあたつては、武器を使用することが出来る(同第八八条ないし第九〇条)とされている。

さらに防衛出動時においては、病院等の施設を管理し、土地家屋もしくは物資を使用し、物資の生産者等にその保管を命じ、又はこれらの物資を収用することも出来(同第一〇四条)、さらに訓練のために漁船の操業を制限又は禁止することが出来るとされている(同第一〇五条)。

(2) 防衛庁は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つことを目的とし、これがため陸上自衛隊等を管理し、運営することおよび日米安全保障条約による米軍の要求に対する事務の処理等を任務(防衛庁設置法第四条)としている。

(3) 本件射撃訓練は右の自衛隊・防衛庁の設置目的、すなわち防衛目的を達成するための行政作用の一部であることは明らかである。

防衛庁の行うこのような訓練は防衛訓練というべきである。

(二) 防衛行政の特色

防衛とは外国による攻撃に対して国家の安全を保持する作用をいう(杉村敏正 防衛法 有斐閣 初版二四頁)とされている。

防衛行政は、他の多くの行政作用と異なり国民に対して何等かの行政を行うというものではなく、外国との関係において成り立つものである。

かつて旧憲法下では、防衛を担う軍隊は天皇の大権下におかれ(大日本帝国憲法一一条は「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」、第一二条は「天皇ハ陸海軍ノ編成及常備兵額ヲ定ム」と規定していた)、国会や内閣は、統帥権についてはもちろん、編成権についてすら、発言することは軍部の抵抗により極めて困難であつた。もとより司法によるコントロールなどは考える余地がなかつた。

現在においても、例えば、軍隊には国家の防衛作用を保護することを目的とする公法上の権利として自己防衛権があり、その行政は行政法上の即時強制の法理によるとする学説すらある(安田寛防衛法概論、オリエント書房、二二一~二二二頁)。

右の学説はともかく、防衛は極めて特殊な性質を有するものであり、次のような特色があることは承認せざるを得ない。

(1) 組織的一体性

自衛隊に対する指揮命令は、防衛庁長官が内閣総理大臣の指揮監督を受け、自衛隊の隊務を統括するとされ、この場合において、陸上幕僚長・海上幕僚長又は航空幕僚長の監督を受ける部隊及び機関に対する指揮監督は、それぞれ当該幕僚長を通じて行うこととされている。

自衛隊の隊員は階級があり(自衛隊法第三二条)、指定場所に居住する義務(同法五五条)、何時でも職務に従事することのできる態勢にならなければならぬ義務(同五六条)、上官の命令に服従する義務(同法五六条・五七条)等があり、組織的な一体性・上命下服が確保されている。

すなわち、自衛隊は防衛庁長官をトツプとするピラミツド型ヒエラルヒー構造であり、統一的・組織的な一体性が保持されている。

したがつて、本件日本原における射撃訓練といえども、自衛隊の組織全体の中の一部として全体の特殊性・全体の機能と同一のものと理解しなくてはならない。

(2) 高度の政治性・技術性

わが国の防衛体制をどのようなものにするかについては、憲法第九条があるにもかかわらず常に国民世論を二分し、国会においても激しく議論されていることは周知の事実である。防衛予算を国民総生産(GNP)の一パーセント枠内に収め得るか否か、また保持を許される自衛力の限界はどこまでかは、常に政治の中心課題である。

政府は「保持を許される自衛力の具体的な限度は、その時々の国際情勢・軍事技術の水準・その他の諸条件で変わる」(一九七八年二月一四日政府統一見解)という。

現在のわが国の防衛は、昭和三二年五月に「国防の基本方針」が定められ、これにより「(3)効率的な防衛力を漸進的に整備する」とされ、昭和五一年に終了した四次防までにおいてほぼ右水準を達成したとし、昭和五一年一〇月二九日「防衛計画の大綱」が定められ、これが現在の防衛政策の基本とされている。

この大綱に基づいて現在は五六中業という防衛整備計画が進行している。これによると五六中業期間中の所用経費は、正面装備費総額四兆四、〇〇〇億円~四兆六、〇〇〇億円(昭和五七年度価格)、後方支援経費や人件費・糧食費を合算した防衛費総額は一五兆六、〇〇〇億円から一六兆四、〇〇〇億円の規模に達する見込みといわれる。

そして、このような防衛力の整備等防衛行政は、国際軍事情勢の変化と絶えず連結し、また米国との政治的・経済的情勢・近隣諸国の軍事能力・国内の世論・経済情勢等内外の状況との関連できわめて政治的に決定されていることは言うまでもない。

さらに防衛体制の中心を為す各種戦闘機等兵力は、近代技術の先端を集積した極めて高度の兵器システムによつて構成されている。航空機・ミサイルなどの飛翔体の誘導・制御のためにコンピユーター・エレクトロニクス技術が駆使され、防御兵器はシステム的構成をとり、不断の技術革新が為されている。さらにはスターウオーズに見られる宇宙も含めての戦略体制である。

防衛政策の決定は、このような高度の技術の選択をもその内容としている。

(3) 国際性・秘密性

わが国の防衛は、日米安全保障条約によつて、わが国の中に米国軍隊の駐留を許し、軍事行動が自由に為されるものとされ、共通の危険に対し対処するものとされている。

現在は、昭和五三年日米間で策定された「日米防衛協力のための指針」(ガイドライン)に基づき、日米間の共同対処行動の際の具体的防衛協力のあり方について協議され、実践されている。主要なものとして「日米共同作戦研究」(自衛隊が防衛作戦、米軍が攻勢作戦を担当することを明らかにし、海峡防衛は主として自衛隊が行うこととしている)、「極東有事研究」(日本以外の極東における有事の際に、自衛隊の基地提供以外の民間空港・港湾・鉄道等の優先使用、民間の船舶・車輛・工場・病院等の便宜供与等が協議されている)、「シーレーン共同研究」(東アジア太平洋地域に空と対潜水艦の各種の対ソ防衛障壁を設け、海洋の兵站連絡線を確保する)等がある。

世界の軍事体制の中では、わが国は西側の一員(防衛白書 昭和五八年版 六二頁)として、国際社会においてその地位にふさわしい役割を果たしていくことが求められているとし、自ら質の高い防衛力整備を図ることが、ひいては世界の平和と安定の維持に貢献することとなる(同六三頁)とされている。

好むと好まざるとにかかわらず、防衛行政はわが国の国際的な外交問題に直結している。

後に述べるように、軍事演習・防衛訓練は直ちに国際的・外交的関連を有し、単なる国内問題でないのが(悲しむべき)現実である。防衛は単にわが国を守るというのではなく、米国の利益をも守らねばならないとされているのである。

このような国際性および前述の高度の軍事技術の要請から、防衛行政の内容はこれまた秘密に富んでいる。

その内容を公開し、法的議論の広場に提供することは始めから予定されていない(自衛隊法五九条は秘密を守る義務を課している)。

(三) 防衛訓練の実態と作用

陸上自衛隊等の行う防衛訓練の実態については、原審において詳述したのでこれを引用するが、さらに次の点を付加しなければならない。

<1> わが国の現在の軍事力の実体は次のようなものである。

陸上自衛隊は兵員一五万六、〇〇〇人、主力戦車九五〇両、榴弾砲七六〇門、迫撃砲一、三六〇門、対戦車ミサイル二六五基、地対空ミサイル二三〇基、それに航空機・ヘリコプター等を擁し、海上自衛隊は兵員四万二、〇〇〇人、潜水艦一四隻、護衛艦三一隻、それに海上偵察飛行機、対潜哨戒ヘリコプター等を擁し、航空自衛隊は兵員四万三、〇〇〇人、作戦機約二八〇機を擁している(ミリタリー・バランス国際戦略研究所編、昭和五八年版による)とされている。

わが国の軍事支出は、世界一六〇ヵ国のうち米国・ソ連・中国・フランス・英国・西ドイツ・サウジアラビアに次いで七位となつている(一九八二年度 岩波ブツクレツト 軍事化される日本八頁より)。

これに加えて、前述の五六中業により、七四式戦車・護衛艦・P3C対潜哨戒機・F一五戦闘機等を中心として「防衛能力、対潜能力、水際防衛能力の充実・近代化」(五六中業整備方針)が革命的に図られようとしている。

<2> 「防衛計画の大綱について」の中で、教育訓練の態勢について「防衛力の人的基盤の涵養に資するため、周到な教育訓練を実施し得ること」と定められており、これにより「装備の導入又は近代化に適応した教育訓練体系を整備し」「所要の演習場・訓練海空域」を確保するとしている(防衛白書 昭和五八年版 九四頁)。

<3> 現代の軍事力の整備増強の目的は、軍事力の均衡と抑止力とにある。防衛白書昭和五八年版も次のようにいう。

「軍事力は、武力行使の手段としてよりはむしろ戦争をできる限り回避し、未然に防止するという抑止力の側面が重視されるようになり、通常戦力についてもこのような抑止力としての側面が重視されている」(六〇頁)。

「わが国の防衛力は、日米安全保障条約に基づく米国の核抑止力を含む軍事力の存在と相まつて、あらゆる脅威に対処し得る態勢を構成することにより、相手国に侵略意図を放棄させ、侵略を未然に防止する役割を果たしている」「わが国がこのような防衛態勢を保持していることが、わが国周辺の国際政治の安定の維持に貢献することともなつている」(六一頁)。

<4> 右のような観点からみるなら、平時における防衛訓練・演習は、右のような軍事力を有効に発揮する錬成であると同時に、その軍事力を誇示し、展開してみせる一種のデモンストレーシヨンでもある。

どのような装備を有し、どのように配置され、どのように機能的有機的に展開されているか、そして、その殺傷能力・破壊能力がいかほどのものか誇示しているのである。

侵略の意図のある相手国に対し、その意図を放棄するよう威圧するものである。

架想敵国に対しては、威嚇であると解しなくてはならない。

したがつて、軍事力の誇示をも含む防衛訓練・演習は、この意味で単なる内部職員への教育訓練ではなく、それ自体が侵略抑止のための防衛行動である。

<5> このことを端的に示すのは次のような合同演習であろう。

(イ) 前述した「日米防衛協力の指針」に基づいて、日米間での共同演習が行なわれている。

海上自衛隊は昭和三〇年以来一〇〇回にも及んでおり、同五五年からはリムパツク(環太平洋合同演習)に参加している。これは、護衛艦・P3C部隊がはるかハワイまで行き、米・カナダ・オーストラリア等と実践さながらの演習を行つているものである。

航空自衛隊については、同五三年一一月から行なわれており、グアムのB52戦略爆撃機と共に電子戦訓練を開始している。これはソ連のバツクフアイア爆撃機の要撃を想定しているといわれている。

陸上自衛隊は、同五六年指揮所演習から始まり、東富士にワシントン州の米陸軍第九師団が参加して行なわれ、北海道でも大規模かつ核・化学戦を想定した訓練が為された。

(ロ) 自衛隊三部隊の合同演習は、同五六年から実施され、米軍とも秘かに連携し、中央のみならず地方でも行なわれ、自衛隊の演習の中では最も重要かつ実戦的なものとなつている。

(ハ) 米・韓国間ではチーム・スピリツトと称し、従前から大規模かつ長期の共同軍事演習が為されていたが、自衛隊も秘かにこれに参加し、右演習に併行して行動している。また、ANZUS条約国(オーストラリア・ニユージーランド・米国)・NATO加盟国の合同演習にも何等かの形態で参加している(NATO諸国間の訓練手順(ATP)、通信手順(ACP)も日本に渡されていることが判明し問題となつたのは記憶に新しい)。

(ニ) 右のような防衛訓練・演習は、それ自体が軍事行動・作戦行動であり、相手国に対する軍事的恫喝である。これはまさしくわが国の安全を守る直接的な防衛行動といわねばならない。

そして、このような共同訓練・演習は、次第に大規模にかつ地方面隊も参加するようになり、頻繁に行なわれるようになつている。

本件日本原陸上自衛隊演習場の演習も、右のような日米間・米韓間の共同行動に連結しているといわれている。

(四) 防衛演習の法的根拠

防衛演習の法的根拠として、原審は防衛庁施設法第五条八号「職員の教育訓練に関すること」を挙げているが、しかし、右にみたように防衛演習はそれ自体が防衛行動であるから、右の外に同法第六条四号「直接・間接侵略に対し、わが国を防衛し、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため行動すること」にも該当するものを解すべきである。

防衛演習はこのようなものであるから、通常の行政庁の行う内部職員に対する行政目的遂行のための教育や研修訓練と本質的に相違しているのである。

防衛演習およびそれぞれに伴う国民に対して賦課する防衛負担について、現行法規はきわめて不備である(杉村 防衛法 八三頁)。防衛作用法の欠落が指摘されている。したがつて、この空白の部分を埋めるため「超法規的行動」をとることもやむを得ない(栗栖元統幕議長の発言)とされている。

このように、防衛訓練・演習を含む防衛行政は本質的に裸の権力であり、法の授権がなくては為し得ない行動ですら行いかねないものである。

(五) 結語

以上のように、本件射撃訓練は現行法制上わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つためとされている防衛行政の一環として為される教育訓練ならびに防衛活動そのものの一部を構成しているものであり、国の根幹に関わる高度の政治性・国際性・技術性等を有する行政作用の一部を為すものである。

二 行訴法第三条一項「公権力の行使」の解釈について

(一) 文言の意義

抗告訴訟の対象である「公権力の行使」という概念については、これまで判例・学説において様々の解釈・説明が為されてきた。これらの解釈の分析は後に行うものとして、先ず、何よりも法の解釈として国語的な意味における文言の意味に忠実でなければならない。条文の文言をそのままの意味として解すべきである。とりわけ「公権力の行使」とだけ規定し、この文言の定義が為されていない以上、常識的な言葉の意味に従うべきである。

そうだとすると「公権力」とは公のすなわち公(おおやけ)の権力と解するのが常識的である。公の権力とは、国家の統治権に基づいて国民や国土に対して行使される様々の国家の究極的には実力を伴つた意思の実現だと解される。防衛のための射撃訓練は、まさに、一般国民が行うことのできない正真正銘の実力の行使だと、先ず常識的にいえることである。

防衛活動と警察活動が国家の権力の行使の最たるもの、最も直接的な力の行使だと、国民一般の常識として考えられている。

従つて、行訴法第三条一項にいう「公権力の行使」も、先ずはこの常識的国語の概念に従うべきものである。

この解釈にたつときは、防衛行政の一環である射撃訓練は国家の統治権の発露としての実力の行使であつて、まさに公権力の行使に該当するものである。

しかるに、原判決はこうした常識的文言解釈に従わず、本件射撃訓練が「公権力の行使」に該当しないとしたものであつて、法令の解釈適用を誤つたものである。

(二) 学説判例について

(1) 伝統的立場

「公権力の行使」の意味について伝統的学説判例は次のようにいう。

<1> 田中二郎氏は、抗告訴訟を、「広く、行政庁の公定力をもつた第一次的判断(法が定めた優越的地位に基づき法の執行としてする意思活動といつてもよい)を媒介として生じた違法状態を否定又は排除し、相手方の権利利益の保護救済を図ることを目的とする一切の訴訟形態」と把握し、行政庁の処分とは、「法律行為的行政行為のほか、準法律行為的行政行為(公証行為・確認行為・通知行為・受理行為等)及び公権力の行使にあたる事実行為を含む」としている。

<2> 行政事件訴訟法の立案に参画した杉本良吉氏は、抗告訴訟とは、「公権力性の排除によつて原告の権利、利益の保護救済を図ることを目的とする一切の訴訟を含」み、ここに「行政庁の公権力の行使」とは、「法が認めた優越的な地位に基づき、行政庁が法の執行としてする権力的意思活動を指す」とする。

<3> 判例において処分性概念のリーデイング・ケースとなつたのは、ごみ焼却場の施設決定行為の処分性を否定した最高裁昭和三九年一〇月二九日判決(民集一八巻八号一八〇九頁)である。これは、行政庁の処分とは、「行政庁の法令に基づく行為のすべてを意味するものではなく、公権力の主体たる国または公共団体が行う行為のうち、その行為によつて、直接国民の権利義務を形成しまたその範囲を確定することが法律上認められているものをいう」とする先例(最判昭三〇・二・二四民集九巻二号二一七頁)を引用してつぎのように述べた。かかる行為は、「行政目的を可及的速かに達成せしめる必要性と」「これによつて権利、利益を侵害された者の法律上の救済を図ることの必要性とを勘案して」「行政庁の右のような行為は仮りに違法なものであつても、それが正当な権限を有する機関により取り消されるまでは、一応適法性の推定を受け有効として取り扱われるものであることを認め、これによつて権利、利益を侵害された者の救済については、通常の民事訴訟の方法によることなく、特別の規定によるべきこととしたのである」ごみ焼却場施設設置行為は東京都の私法上の行為なり内部行為で、右にいう処分にはあたらない。

本件第一審岡山地方裁判所も同じく右の伝統的立場に立脚し、公定力を前提として実定法が国民に対し権利を奪い、義務を課しているか否かを穿鑿し、射撃訓練について国民が直接受忍すべき義務を定めた規定は見当たらないとして、したがつて、「公権力の行使」とはいえないものと判示した。

(2) 原審の立場

原審はこの点において必ずしも右の第一審と同様の解釈はとらないで、次のようにいう。

「抽象的には、それが法的根拠のもとに行政権の優越的な意思の発動としてなされたものかどうかによつて決まるものといい得るものであるが、具体的には、当該行為を行政主体の権限として認めた法の趣旨、目的に照らしてその行為や、それに伴つて生ずる効果ないし法律関係を私人相互間の関係と区別して取り扱うだけの合理的根拠があるかどうか、その行為が私人相互間にはみられない関係のものであるかどうかなど総合して個別的に判断するべきものである。」

しかし、これだけでは「公権力の行使」に該当するか否かの判断基準としては極めてあい昧である。行為の効果ないし法律関係を私人相互とは区別する合理的根拠があるか、私人間にはみられない関係のものであるかどうかなどを総合して判断するといつても現実の判断にあたつては何の役にも立たない。合理的根拠というが、合理的か否かは何に従つて判断するのか混乱は増すばかりであるし、私人相互間にはみられない関係のものかどうかというが、行政庁と私人の関係は基本的にはそのほとんどが、私人間にはみられないものであり、これだけでは何の判断基準にもならないものである。

問題は、その質的・量的相違をどのような基準で区分けするかである。

むしろ、射撃訓練は「私人相互間には」現行法制下では絶対に「みられない関係のもの」であり国の防衛は国家に特有のものであるし、防衛行為の一環としてみれば、その効果や法律関係をまさに「私人相互間の関係と区別して取り扱うだけの合理的根拠がある」場合であると解した方が妥当であろう。

(三) 抗告訴訟の存在理由

(1) ところで、法律上の争訟について、法が民事訴訟とは区別して行政事件訴訟法を制定し、抗告訴訟という類型を用意し、抗告訴訟は行政事件訴訟法の手続きに寄らしめている理由は次の諸点にあると解される。

<1> 公益と私益とを区別し、公益を優先させ、公益上の必要から行政上の法律関係を安定させること。

出訴期間の定め(第一四条)、執行不停止の原則(第二五条一項)、例外的執行停止と内閣総理大臣の異議(第二七条)、仮処分の排除(第四四条)、事情判決(第三一条)

<2> 行政行為の当事者としての行政庁の責任を明確にすること。

被告適格(第一一条)、判決の効力(第三三条)

<3> 弁論主義を補充し、裁判の適正を確保すること。

職権証拠調(第二四条)

<4> 同一の行政処分に関連する紛争を一挙に解決し、また関係行政庁に訴訟上の地位を与えること。

関連請求の併合(第一六~二〇条)、訴えの変更(第二一条)、第三者及び行政庁の訴訟参加(第二二・二三条)

<5> 行政庁の政治的判断又は専門技術的判断など自由裁量行為に対する司法審査の限界を定めること。

審査請求前置(第八条項但書)、裁量処分の取消事由の限定(第三〇条)

【園部逸夫、「行政訴訟と民事訴訟との関係」、新実務民事訴訟法講座九、一八頁を参考とした】

(2) ある行政庁の行為あるいは法律関係を、民事訴訟によるのかあるいは行政事件手続によるのかは、実体法上の行為の性質によることは当然としても、一面において、どの訴訟手続によるのがより合目的的かの判断が極めて大切であり、「公権力の行使」とはこうした観点からより一層判断されるべきである。

すなわち、本件のような射撃訓練について、これを内部職員の教育訓練と狭く考え、かつ行政財産の通常の用法により自らが使用しているにすぎないとして公権力性を否定し、民事訴訟による解決を示唆する(第一審判決は( )内で説示し、原審もこれを支持している)のと、公権力の行使と解し行訴法による解決するのと、訴訟法体系のなかで、あるいは、訴訟手続きの本質に鑑み、どちらがより合目的的かということになる。

本件射撃訓練のもつ性格・特性については、既に述べたように、一国の根幹にかかわる防衛行政の一環を占めるものである。そして、極めて政治的であり、かつ高度に専門性(秘密性)を有する。このような性格を有する射撃訓練についてこそ前述の行訴法の特例・制度を必要としていると思われる。すなわち、処分主義・弁論主義を基本とし、執行停止・仮処分を認め、私人間の利害を調整する手続によるのと、前述の公益の立場から法律関係を早期に安定させ、公益のため特別の措置をもとりうるのも、そのどちらがより合目的的かはいわずして明らかであろう。

防衛演習は、また、前述のように日米共同演習等にみられるように外交にも絡む政治的要素を含んでいる。

このようなものに、民事上の仮処分を認め執行停止を容認し、事情判決制度の適用を認めないのが果たして妥当と言いうるであろうか。

それは、政治的是非は別として、法的にはまさに総理大臣の異議や事情判決を必要としているのではないだろうか。

(四) 民事訴訟によることが可能か

そこで更に、民訴法による解決が妥当か検討してみる。

大阪空港訴訟の第二審差止判決を前提として、いかなる強制執行が為し得るかを検討し、第一に間接強制、第二に「将来のための適当なる処分」として公示や一定期間国内線ロビーの執行官保管が可能であるとした論文がある。(竹下守夫「差止請求の強制執行と将来の損害賠償請求をめぐる諸問題」判例時報七九七―三〇)

これに対し、「こうした措置の延長上には航空管制室等の施錠なども検討されそうであるが、いずれにせよ差止認容判決が右のような結果になるとすれば、裁判所や執行官が空港管理権の内部に立ち入ることになり、実定法が認めた独立的権能は著しく毀損されることになるのではあるまいか」(鈴木庸夫、「当事者訴訟」現代行政法大系5 九三頁)との批判が為されている。

そして右のような問題を前提にして、国有財産の管理を争う訴訟については単なる民事訴訟ではいけないのではないか、と疑問が呈示されている(別冊判例タイムズ「行政訴訟の課題と展望研究会」仲江利政判事の発言 六一頁)。

本件のような射撃訓練行為については、国に対する給付判決(差止判決)に基づいていかなる強制執行が可能であろうか、執行官による民事執行が可能であろうか、極めて疑問が多いところである。民事判決を執行する公権力と行政権との対立・拮抗が生じ、調整の方法がない。

このような問題意識から、公共施設から生ずる公害を除去ないし差止める訴訟法上の方法として無名抗告訴訟(権力的妨害排除訴訟)を提案され(塩野 宏「無名抗告訴訟の問題点」新実務民事訴訟法講座九 行政訴訟Ⅰ 一四二頁)、また公法上の当事者訴訟によるのが適切であるとする考えが示されている(園部逸夫「行政訴訟と民事訴訟との関係」右同講座 二四頁、「同グレイ・ゾーンと行政訴訟」季刊実務民事法四 一七頁、さらに鈴木庸夫氏もこうしたトラブルの調整的機能をあげて裁判官や執行官に委ねることとなり問題が多く、行政権の自主的対応が必要であるとして右の公法上の当事者訴訟によるのが適当だとしている。同氏前掲書九四頁)。

右のごとき学説の動向にも示唆されているように、公共施設から生ずる様々の不利益や権利侵害の救済については、従前どおりの民事訴訟によるよりも公法上の関係としてとらえ、行政事件訴訟法による解決を図るのがより適切であると考えられるのである。

後掲大阪空港訴訟に関し、この種案件が民事訴訟になじまないとする最高裁判所の多数意見も、結局のところは右のような反省と問題状況を前提にしていると思われる。

(五) 結語

このようにみると、本来は公権力性を有しながらもその行政作用の特性や政治的対立を回避するという立法政策のために、国民に対し具体的な権利を奪つたり義務を課したりする実体法上の規定を欠いているような場合には、実体法上の規定をあれこれ詮索して公権力性の有無を判断する方法は、既に妥当しないといわなくてはならない。

実体法において必ずしも受忍義務を定めた法規は存在しなくても、その有する行政目的か行政作用の性質からみて、行政事件訴訟法の手続に寄らしむるのが妥当と判断されるときは、当該行政行為は「公権力の行使」に該当すると解すべきである。

しかるに、原判決はこれと異なり「公権力の行使」に該当しないとしたのであり、法令の解釈適用を誤つたものである。

三 立入禁止処分について

本件立入禁止処分は、右の射撃訓練を円滑ならしめるために為される処分であり、両者は一体のものである。

射撃訓練が公権力性を認められるなら、右立入禁止についても公権力性が認められるべきである。

第二点

本件射撃訓練および立入禁止処分は公権力の行使に該当しないとして抗告訴訟としての訴を却下した原判決には、民事訴訟と行政訴訟の区分に関する法令の解釈適用を誤つた違法があり、これが判決に影響を及ぼすことは明らかである。

すなわち現行法上、行政庁との法律上の争訟については行政事件訴訟による場合と民事訴訟法による場合とあるが、本件原判決は本件射撃訓練等に対する不服の申立は行政事件訴訟によることは出来ない、との立場をとつた。しかし、本件のような性質を有する行為に対する不服の申立は、民事訴訟によると行政訴訟によると、原告が選択した方法によつて審理判決するというのが正しく、原判決は法令の解釈・適用を誤つている。

一 わが国では民事訴訟法の外に行政事件訴訟法が制定されている。そして、同法によると、行政事件訴訟とは抗告訴訟・当事者・民衆訴訟・機関訴訟をいうものとされ、抗告訴訟は「公権力の行使に関する不服の訴訟」をいい、当事者訴訟は「当事者間の法律関係を確認し又は形成する処分又は裁決に関する訴訟及び公法上の法律関係に関する訴訟」をいうとされ、民衆訴訟・機関訴訟はそれぞれ法律に定めのある場合にのみ提起できるとされている。

そして、そのどちらの訴訟手続きによつて審判を求めるのが可能なのか、訴訟を提起する前に国民はまずその選択を迫られる。

ところが、この両者の区分がまことに判然としない。

園部逸夫裁判官は次のように言う。

わが国では、このように、ある事件の処理に当たつて、まず、民事事件であるか行政事件であるかについて観察し、いずれかに区別しなければならないが、区別の根拠が必ずしも理論的に明確でなく、右に述べたような観察者の思考方式によつて左右されやすいということは、まことに諸外国に例を見ないことといわなければならない。

まず、英米法の場合は、民事事件と行政事件を区別するとしても、それは、審理手続や裁判所の区別と全く関係がない理論的な問題にとどまることが多いので、このような問題は起こらない。フランスや西ドイツの場合は、民事事件と行政事件との区別は、管轄裁判所の区別と直接関係があるから、区別について紛議が生ずれば、権限裁判の問題となり、権限裁判所が決定するか、移送裁判所の制度や出訴期間の特例をおくことなどによつて解決される。ところが、わが国では、英米型の通常裁判所で行政事件を扱うことになつているにもかかわらず、大陸型の法制の影響を受けて、審理手続きを異にするが、裁判所は同じ通常裁判所であるため、権限裁判の制度が置かれていないという、中除半端で、徹底しない状態になつている。したがつて、第一審裁判所は、自らの手で事件の性質を見極め、いずれの審理手続によるかを決めなければならず、しかもその判断は、上級審によつて是正される可能性があるという複雑な状況を呈している(新実務民事訴訟法講座九 行政訴訟I 一一頁)。

また、阿部泰隆教授は次のように指摘する。

このような事例(どのような訴訟形式をとるか原告が過失なくして判定困難な事例)についても、訴訟形式・訴訟対象原告特定の原則が妥当していることは今日つぎのような弊害をもたらしている。すなわち、

この原則の下では、訴訟形式と訴訟対象は原告が自己の危険と責任において選択しなければならないのであるから、原告が十分に成り立ちうる複数の見解のうちの一つを選択し、その選択になんら落度がない場合でも、裁判官が原告と異なる見解を採用して原告の選択を誤りであると判定したならば、原告の訴えは却下され、それは本案審理の機会を失つてしまうであろう。これでは、まるで闇打ちである。(「訴訟形式・訴訟対象判定困難事例の解決策―行政訴訟相互間および抗告訴訟と民事訴訟の関係に関して」別冊判タ二号 七頁)

さらに、

原告が当初提起した訴訟が訴訟形式の選択を誤つたとして却下される場合(判例上この事例は多い)、とくに、上級審で訴えが却下される場合、あらためて出訴することは訴訟経済上著しく不都合で原告に過大な負担を課すのみならず、あとになつて抗告訴訟を提起すべしとするならば、出訴期間の制約、不服審査前置の制約により出訴の機会を剥奪しかねない。のみならず、抗告訴訟と民事訴訟の判決は、恐らく一般の理解では、相互になんらの効力も及ぼさないから、理論的にいえば、相矛盾する裁判が下され、両訴訟とも却下されることもありうるであろう。原告がはじめから両方の訴えを別々に提起した場合も理論的には同様のことが生ずる。(同論文 一四頁)

といわれる。

そして、右両者間の調整方法を明確に採用しなかつたのは立法ミスといわれている。

二 本件事件についても訴提起をしたのが昭和四六年六月であつた。以来、第一審判決のあつた昭和五八年五月二五日まで一二年間にわたつて、本案の内容にわたつて審理が為されてきた。

この間、裁判官は幾人も交替した。また防衛庁側は当初より抗告訴訟によるべきでないことを主張していた。

しかし、従前の裁判官はいずれも訴訟要件である訴訟型式については判断を示さず、むしろ事実上本案に入つて審理することを認めて抗告訴訟によることも容認していたものであつた。

ところが裁判官交替を機に弁論終結となり、却下判決となつたという経緯がある。

三 後述のように、国民には裁判を受ける権利がある(憲法三二条)。

前記のような矛盾・混乱を回避し、国民の裁判を受ける権利を実質的に保護するためには、本件のように訴訟型式が判然と区分し難い事例については、両者の併用を認めるべきである。

この点については、原審昭和五九年四月二四日付準備書面第三抗告訴訟としての可能性および訴訟類型選択可能論において詳述したとおりであるからこれを引用する。

要するに、民事訴訟といい行政訴訟といつても、同じ裁判所の裁判官が審理し、被告はいずれも国の立場を代弁する訴訟の専門官である訟務検事と担当行政庁の係官が出頭するのであり、両者のハードの部分での相違はほとんどない。

「抗告訴訟は他に適切な救済手続がある場合には許されないとの原則(平行訴訟禁止の原則)は、そう厳格に貫徹すべきものではないというべきかもしれない。むしろ第一審の裁判所としては、かかる微妙な事例においては、いちおう当事者訴訟に訴えを変更ないし追加すべき旨を原告に指示するにとどめ、もし当事者がこれに従わない場合には、当事者が好んで提起した抗告訴訟の審理をそのままの形で進めてしまう方が、訴えを却下するよりも原告の救済のうえからも訴訟経済のうえからも、適当なのではないかとおもわれる。権力(公法)関係と非権力(私法)関係という体系的二分論を緩和し、抗告訴訟の対象たる「処分」の意義を救済の便宜のために弾力的に理解することを前提として考えるならば、抗告訴訟と他の通常訴訟(公法上の当事者訴訟、民事訴訟)との間に質的断層を設けるべきでないから、相互の訴訟形式の選択に融通性を認めても、あながち支障はないといえよう。現に、フランスでは、平行訴訟禁止の原則は近時大巾に緩和され、越権訴訟の対象はきわめて広汎なものとなつているのである。

かかる傾向をさらに一歩押し進めるならば、「法律上明示的に行政処分であることが規定されている場合は、必ず、抗告訴訟の方式によることが必要であるが、それ以外の公行政の行為については、それが必要とされている要件(事件性、訴えの利益、出訴期間など)を満たしているかぎり、個人の責任で選定した訴訟形式を許容」すべきものであり、抗告訴訟の可否を決するに際し「当該公行政の法律関係が公法関係、私法関係のいずれに属するかをせんさくする必要はない」との大胆な提言を率直に承認する方が、訴訟形式の選択の場における無用な混乱を回避でき、救済の簡便を期すことが容易になるかもしれない。」(原田尚彦「訴の利益」一六一頁)

とする提言に従うべきである。

四 本件射撃訓練および立入禁止処分についても、行政事件訴訟によるか民事訴訟によるかまことに判然としない。厚木基地訴訟においては、自衛隊の飛行訓練について民事訴訟を否定したことは後述のとおりである。

このような事例についてはまさに憲法上の要請に従い、国民に対し将来の裁判官の判断に対する神業に近い洞察を要求し、回復不能なリスクを課するような解釈は慎むべきである。

一二年に及ぶ第一審の審理、そして二年に及ぶ原審の審理(実質的には弁論が開かれただけであるが)のすべてを徒労とするような訴訟の対応は国民を愚弄するものである。

抗告訴訟による審理を拒否した原判決はこの点において原告が選択した訴訟方式を否認のみしたもので、行政事件訴訟法の解釈適用を誤つたものであり、破棄を免れ難い。

第三点

原判決は何等の釈明権の行使もせず、本件射撃訓練等の差止を求める訴訟は抗告訴訟に該当しないとして却下したもので、釈明権不行使の違法があり、この違法は判決に影響を及ぼすことが明らかである。

一 本件射撃訓練等の差止を求める訴訟が、行政事件となるのか民事事件となるのかその区分は判然とせず、将来の判決を予測することは極めて困難であることは前述した通りである。

このような判定困難な場合、しかも裁判官によつて区々分かれるような場合には、裁判所は釈明権を行使して訴訟を善解し、訴を却下するという事態は避けるべきである。

とりわけ立法ミス(前述 阿部泰隆教授の指摘)とさえいわれる両訴訟形式間の調整方法が定められていない法制の下では、釈明権行使による訴訟維持は裁判所の義務である。

憲法に定める裁判を受ける権利の保証を実現するためにも当然のことであるといわねばならない。

両訴訟間の調整規定を置いていない行政事件訴訟法は、右の憲法上の要請に従い、裁判所の釈明権行使によつて右の指摘される不合理・矛盾を解消しようとしたものと解すべきである。

行政事件訴訟法が国民の裁判を受ける権利を実質的に奪つてしまい憲法に違反するとの批判を避けるためには、少なくとも右のように釈明権行使による調整を予定していると解しなくてはならない。

二 ところが、原判決は、この釈明を求める義務に反して何等の釈明権を行使することもなく本件訴を却下したもので、釈明権不行使の違法がある。

釈明権が行使されておれば、民事訴訟として、あるいは、公法上の法律関係に関する当事者訴訟として、審理されて却下は免れていたかも知れないのであり、この意味で釈明権不行使の違法は原判決に影響を及ぼすことが明らかである。

第四点

本件判決には、左のとおり最高裁判所の判例違反の違法が存する。

一 原判決は、昭和五六年一二月一六日最高裁判所が言い渡した最高裁昭和五二年(オ)第三九号大阪国際空港夜間飛行禁止等請求事件判決(以下、本件最高裁判決という)に反する違法な判示をなした。

二 本件最高裁判決の骨子は次のとおりである(ただし、原判決に関連する部分のみ掲記する)。

(一) 大阪空港は空港整備法二条一項一号にいう第一種空港として指定された公共用飛行場であるので、国の営造物にあたる。

(二) 営造物の管理権は、同種の私的施設の所有権に基づく管理権能と全く同一とは言えないが、公権力の行使をその本質的内容としない非権力的な権能である。

(三) 大阪国際空港の管理は、運輸大臣に付与された航空行政上の権限と法律上どのような位置関係に立つかの検討が必要である。

(四) 大阪国際空港の管理者と航空行政権の主管者がともに運輸大臣である場合、各権限の逐一的吟味が大切ではあるが、その最大の目標は、航空行政権の行使としての政策的決定を確実に実現し、国の航空行政政策を効果的に遂行することを可能にするにある。

(五) 公共飛行場の設置・管理の在り方がわが国の政治、外交、経済、文化等と深いかかわりを持ち、国民生活に及ぼす影響も大きく、したがつて、どの地域にどのような規模でこれを設置し、どのように管理するかは航空行政の全般にわたる政策判断を不可欠とする。

(六) 大阪国際空港における航空機の離着陸の規制等は、単に営造物の管理権の行使という立場のみでなく、航空行政権の行使という立場も加えた、複合的観点に立つた総合的判断に基づいてなされている。

(七) 本件最高裁判決の上告人は、大阪国際空港を一定の時間帯につき航空機の離着陸に使用させないということが大阪国際空港の管理作用のみにかかわる単なる不作為にすぎず、およそ航空行政権の行使には関係しないものであるか、少なくとも管理作用の部面を航空行政権の行使とは法律上分離して給付請求の対象とすることができるとの見解を前提としている。

(八) しかし、大阪国際空港の離着陸のためにする供用は、空港管理権と航空行政権が不可分一体と化したものである。上告人の請求は、不可避的に航空行政権の行使の取消変更ないしその発動を求める請求を包含する。

(九) 上告人の主張は民事上の請求としては許されない。

よつて、一定の時間帯につき、大阪国際空港を航空機の離着陸に使用させることの差止を求める請求部分は不適法である。

ところが、原判決は理由の(一〇)において次のとおり、本件においては防衛行政権というものは認められないとするとともに、第一審判決の理由第四、一2(四)の判断を示している。

「4 また、本件において公権力の行使たる防衛行政権というものを認めることのできないことは前示のとおりであるから、本件立入禁止措置について大阪空港事件大法廷判決の考え方を援用する控訴人らの主張を採用できない。」

四 しかし、本件においては、航空行政権に対応する防衛行政権というものが存し、自衛隊の行う射撃訓練はその防衛行政権と深くかかわりあつている。

防衛行政の特色、防衛演習の実態については前述したとおりであるが、必要な限りで再度指摘する。

(一) 我が国とアメリカ合衆国との間には「日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約が締結されているが、同条約六条では、アメリカ合衆国軍隊は日本の安全及び極東の平和と安全の維持に寄与するため日本の施設・区域を使用することができるとされている。

そして、同条約六条に基づく施設及び区域並びに日本国における合衆国軍隊の地位に関する協定二条四項(b)により、アメリカ軍は自衛隊の基地を一定期間共同使用することができる。

右による自衛隊基地のアメリカ軍による共同使用が急速に増加している。

前述したように、昭和五三年一一月、日米防衛協力のための指針(ガイドライン)が日米間の決定事項となり、日米共同演習の実施、日米共同作戦計画の策定、両軍の指揮調整機関の設置、基地の共同使用等日米共同作戦の基本が協定されている。

右による日米合同演習の実態は前に述べたとおりである。

自衛隊の行う演習は、防衛庁設置法五条二一号に規定する「所掌事務の遂行に必要な教育訓練を行うこと」とする組織的授権に基づいて行われているが、政府解釈によると、日米安保条約の適用範囲をはるかに超えるANZUS条約、NATO条約加盟国との共同軍事行動・演習もこの規定を根拠にして可能である、としている。リムパツク(環太平洋五ヶ国合同演習)もこの考え方を法的根拠として行われている。

このように、本件演習場内における射撃訓練は、単純に我が国だけに関する事項ではなく、国際条約に基づく諸外国との軍事協力関係や我が国と極東の平和と安全の維持のための高度の政治決定に基づく外国軍隊の諸行動との関連性も否定できない事項であつて、明らかに防衛行政が直接かかわるところである。

(二) 本件射撃訓練は、国家の防衛行政作用の一部であることも指摘したとうりである。射撃訓練は、通常の法概念・社会常識ではとらえがたい実体を持つている。

それは、「防衛」が外国の攻撃に対して国家の安全を保持する作用であり、勝敗だけが正義を決するに近い分野だからである。「防衛」に関しては、各国共に、国家権力を維持する階層が自己の保存の問題として、支配体制維持のために高度の政治的決断により、ことを決している。

射撃訓練には、防衛行政権の特徴が特別よくあらわれている。例えば、使用する兵器については再先端の技術が用いられ、兵器の開発には金に糸目をつけず巨大な予算が投入されている。そして、兵器は日進月歩の急速な技術革新がなされている。

そして、機密の保持が特別強く要求される。兵器を使用される相手国にとつては、兵器の性能を知ることが自国の防衛上特別重要であり、そのために、スパイ活動が展開されている。他方、兵器を所持する側の国にとつては、兵器やその使用に関して特別の機密防衛が行われている。

このように、基地内で射撃訓練を実施するには、具体的な条文上の根拠がなくとも、現実において高度の政治的配慮による規制、場合によつては具体的根拠法規に基づかない行政上の規制が行われざるをえず、この射撃訓練が防衛行政と関係がないなどとは到底いいえないところである。

(三) また、陸上自衛隊は総員約一八万名を擁し、航空自衛隊や海上自衛隊とも密接な関係を保ちながら訓練や作戦行動を実施していることも前述した。

自衛隊は、世界の各国の現在・将来の軍事力、近隣諸国の予想される軍事情勢の展開をみながら、我が国の防衛体制を策定し、長期・中期の防衛計画を樹立し、それとの関係で年間の訓練計画を立てている。演習計画は、我が国の兵器の水準の向上、隊員の軍事技術の前進、協力関係にある友好国の軍事能力、近隣諸国の軍事能力等との相関関係の中で、長期的・総合的観点から立てられる。

このように、自衛隊の行う演習は高度に政治的に決定されると共に、我が国の防衛を確実に果たすための高度の国策の必要から、計画目標は確実に実施されなければならない。そのため、演習は陸上自衛隊だけの問題に狭く限定されることなく、アメリカ軍や航空、海上自衛隊の演習計画との相関関係の中で決定されて行くのである。個々の演習は他の数多くの演習や作戦と有機的に絡まつており我が国や友好国の防衛計画に組み込まれ、全体が有機的一体となつている。

このような演習の実施は、高度に政治的な防衛行政権の行使と不可分一体である。

(四) さらに、自衛隊が実弾射撃の演習を行う場合には、着弾地に大規模の爆発が起こり、付近の地形までが著しく変形する。また、地形が演習に適するように、工作物を設け、その他自然条件に大幅に手を加えることが少ない。

このように演習は、演習場周辺の自然体系に変更を加えるので、その地域の天然樹林の生態系に異変を引き起こし、地下水脈を枯渇させ、池沼の水を悪汚し、その他地域の自然条件を一変させかねない。

本件演習場付近は、保安林とりわけ水源かん養保安林に指定されており、禁猟区の指定を受け、また、国定公園の一部である。

そこで、演習に関しては、県や町の許認可事項とのかかわりが少なくなく、行政権と密接な関連を有している。

五 自衛隊の行う訓練活動が、防衛行政権と密接不可分一体の関係にあるという見解は、厚木基地公害訴訟についての第一審判決である横浜地方裁判所昭和五七年一〇月二〇日判決(判例時報一〇五八号二六頁)から知ることができる。

防衛行政権に関する部分を掲記する。

「自衛隊法(七、八条)によれば、自衛隊を指揮監督する権限は内閣総理大臣及びその指揮監督下にある防衛庁長官に付与されており、防衛庁長官等は前記自衛隊の任務及び防衛庁の権限による防衛活動、あるいは防衛活動に備えての訓練活動をどのような方法、態様で行うべきかという意味での防衛行政政策の実現のために、防衛行政上の諸権限を行使して、現実に自衛隊機の運行を行う自衛隊員に対し、いわば国の命令として航空機の離着陸を命ずるのである。この自衛隊機の運航に関する防衛行政権(これを広義に行政権と呼ぶことは許される)の行使は、飛行場の円滑な供用行為によつてはじめて実現されるのであるから、前記飛行場の設置・管理権と右防衛行政権とは、密接不可分に行使実現されるべきものと解するのが相当である。従つて、本件飛行場の設置・管理及び自衛隊機運航のいずれの面に着目しても、前記防衛行政権の行使としてなされるもの、あるいは少なくとも飛行場の設置・管理はそれ自体防衛行政権の行使としてなされ、これに高度に政策的な前記広義の防衛行政権の行使としての自衛隊機の運航がなされることによつて、本件厚木飛行場が航空機の離着陸に供用されるということができるのである……。」

右のとおり、同判決は、航空機(自衛隊機)の離着陸を制限させることを求める請求は、直接当然に、防衛行政権の行使の取消変更ないしその発動を求めるものである、とし、民事訴訟になじまないと結論するのである。

厚木基地が自衛隊の基地であり、防衛訓練がその飛行場の設置・管理の一大目的であるところ、本件日本原演習場も空と陸との違いこそあれ、他はすべて同じ趣旨、目的に解すべきことは当然である。

六 以上のとおり、本件においては、防衛行政権というものが存するから、前記大阪空港訴訟大法廷判決の場合と異なるところはなく、原判決の判断は誤つている。

第五点

原判決は、第一審判決が一二年に及ぶ準備手続および本案審理を無視し、門前に押し戻して訴を却下するという憲法第三二条に違背する訴訟手続を為したにもかかわらず、これをそのまま容認したものであつて、原判決も憲法第三二条に違反するものである。

一 憲法第三二条は、「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪われない」と規定し、国民の裁判を受ける権利を保障している。

右は、民事・行政を問わず、何人も自ら裁判所へ訴訟を提起し、救済を求めうる権利―これを裁判請求権、または訴権という―を有することを意味し、裁判所は「裁判の拒絶」をしてはならない、ことを表しているとされている。

二 しかるに、次に述べるように第一審判決は実質的に、上告人らの裁判を受ける権利を侵害し、「裁判拒絶」をしたもの、すなわち憲法第三二条に違反する訴訟手続をなしたものであるにもかかわらず、原判決はこれを容認しており、原判決も憲法に違反するものである。

(一) 本件射撃訓練の差止を求める請求について、これを行政事件とするか民事事件とするか誤りなく判断を下すことは極めて困難である。

(1) 前述したように、両者の区分に関する学説・判例も区々に分かれており、理論的にも両者を截然と区分することが出来ない。

(2) 右のように、漠然あい昧であるにもかかわらず、両者を調整あるいは救済する制度が設けられていない。このことの問題性もすでに指摘した。

(3) 上告人らが抗告訴訟としたことも法理論上当然に成り立ち得る一つの選択であり、不注意・誤解といつた上告人らに責を帰すべき理由はまつたくない。

(二) さらには、民事事件訴訟といい行政事件訴訟といつても、前述したように裁判所の構成、被告の応訴にほとんど差異はなく、両者は相互に善解・移行し得るものである。

(1) 上告人らの請求(趣旨)はいずれの類型によろうと同旨であり、たかだか相手方当事者の表現上の差を見出すにすぎない。なるほど、相手方が官庁間の管轄を異にし権限外の事項に応訴を迫られたとなると、事実の究明、資料の探査収集等主張・立証上少なからぬ障害を与えるであろうことは予測される。このような提訴者の一方的決め付けによつて相手方の蒙ることあるべき不利益を防御するための手だては充分講じられる必要があり、これを訴訟理論に組み込むことは充分理由がある。

しかし、本件の経過に即して考える限り、争点となつた演習行為の企画立案実施その他現地の状況等訴訟上の全問題点の掌握において、被告を「国」としようと、「防衛庁長官」としようと、何等かの支障が生ずることはあり得ない。

この点はむしろ、民事訴訟から行政訴訟への転換を図る場合と違つて、当初から行政訴訟による方が被告側の対応としては、公益上諸種の制度的利益を享受しうるという利点があるくらいである。

現実にも被上告人らの反論・反証の提出等応訴活動は充全に尽くされている筈であつて、行政訴訟なるがゆえの困却が示されたためしがなく、提出された門前払い論もひつきよう訴訟対抗論として提訴者への不利益・打撃になることなら何でも主張するという類の単純なる動機に基づくものでしかない。

(2) したがつて、裁判所の釈明権の適切な行使・運用によつて、初めから民事訴訟として善解することも可能であるし、場合によつては訴えの変更を勧告することも出来る(行訴法第二一条)。

いわば両者は裁判所の適切な訴訟指揮と訴訟当事者の協力によつて、訴訟上の重大な不利益・不都合を回避することが可能である。

(三) ところがそうであるにもかかわらず、第一審判決裁判所は、準備手続・証拠調を含めて一二年に及ぶ審理が為されて、実体判決も可能となつた矢先、突然結審し、却下判決をしたものである。

(1) 第一審裁判所では、従前の裁判官(中原・寺井・田川各裁判長)は、訴訟条件について独自に判断するのではなく本案に入つて審理することを表明し、事実本案である上告人らの請求の基礎となる入会権・通行権・耕作権等の存否について審理をしてきた。とりわけ、準備手続から本案審理に入る際、被告側から訴訟条件について独自に判断するよう求められた際、裁判所は、明らかにこれに従わなかつたことは記録上からも明白である。

長年月の経過が国民の基本的人権の内実を形成するという考えは、裁判例(高田事件 最判 四七・一二・二〇)に鑑みても、唐突な解釈ではない。

上告人らはこの一二年の審理において、本件訴訟において実体判決を受け得るという期待と権利を取得していたものである。

「裁判を受ける権利」の内実が、すでに形成されていたものである。

(2) それにもかかわらず、前述のように第一審判決裁判所は釈明権行使等を為さず、一方的に上告人らの期待と権利を奪つて却下判決を下したものである。

これは、これまでの実体上の証拠調や、努力の成果を一蹴してしまうものであり、訴訟当事者の信義にももとるものであつた。

(3) このような却下判決によつて、上告人らは、理論的には一二年前(現在からは一四年前)に実施されようとした射撃訓練について民事訴訟を提起するという不利益と不都合を強いられることとなるが、現実にはこのような訴提起が不可能である。

三 右の経緯に照らすと、第一審判決裁判所が為した訴訟手続は、憲法第三二条に定める国民の裁判を受ける権利を実質的に奪うものであつて、憲法違反といわねばならない。

したがつてまた、これを是正することなく、いとも容易に第一審判決を肯定した原判決も憲法に反するものといわざるをえない。 以上

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